【デ・レーケ】日本砂防の父と呼ばれるオランダ人〜土木スーパースター列伝 #06
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【デ・レーケ】日本砂防の父と呼ばれるオランダ人〜土木スーパースター列伝 #06

河川の堤防がうろこ状に重なった形をしているものを「霞堤(かすみてい)」と言います。武田信玄が釜無川でつくった信玄堤や笛吹川の霞堤など、戦国武将が各地でつくったことで古くから有名なのですが、実際に霞堤の名前が使われだしたのは明治時代なんです。

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黒部川霞堤(ドボ博川展/撮影:大村拓也)

今回は、この謎を解くのに欠かせない人物「ヨハネス・デ・レーケ」をご紹介します。

こんにちは。いきなりマニアックな入りをしてしまいました(笑)。

「土木偉人かるたイブニングトーク」司会のかすみ亭てっちゃんこと、鹿児島に本部を置く第一工科大学自然環境工学科准教授の寺村淳と申します。大学では河川(主に災害と治水史)を研究しています。


お雇い外国人技師ってなに?

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さて今回、私がご紹介するヨハネス・デ・レーケは、明治期に河川・港湾事業で活躍したオランダ出身のお雇い外国人技師です。シリーズ『土木スーパースター列伝』では、日本で活躍した外国人が初登場となりますね。

お雇い外国人とは、明治維新の開国時、鎖国によって産業革命が起こっていなかった日本の近代化のため、莫大な予算をかけて諸外国から雇い入れた専門家・技術者のことです。

英国を中心とした欧米からの雇用が多く、技術者・教員・事業家から工夫(こうふ)まで数千人の外国人が日本の近代化に関わり、技術輸入による日本国内の発展に大きな役割を果たします。

デ・レーケもそんなお雇い外国人技師の一人として来日しました。1873年(明治6年)6月、31歳のときでした。


地位が低く、給料も安かったヨハネス・デ・レーケとは?

来日当初はお雇い外国人の技師としては比較的地位が低く、同郷のエッセルや上司のファン・ドールンと比べると給料もずいぶんと安かったといいます。

1842年オランダのコリンスプラート生まれ。父は築堤職人で先祖代々堤防工事に従事していたそうで、職人の家の出であった彼は大学(当時は王立アカデミー)までは行けず、そのことが同僚で同じ歳のエッセルや上司のファン・ドールンとの雇用時の立場の差となったようです。

ちなみに、エッセルはだまし絵で有名なエッシャーの父で、デ・レーケと親交の深かった人物です。

デ・レーケは来日後,淀川改修工事や木曽三川の改修工事、常願寺川、九頭竜川、筑後川の改修工事など日本全国の大型河川改修に30年も飛び回り、特に、上流砂防を重視したことから『砂防の父』と呼ばれるようになります。

お雇い外国人としては地位が低く、大学で砂防を習得していなかったデ・レーケが、30年にも渡り日本の土木と密接に関わり、『砂防の父』となったのはどうしてなのか? 彼の足跡をたどりながら紐解いてみましょう。


30年も雇われ続けたわけ①〜霞堤を推す

0410_joganji_01_03ヨハネス・デ・レーケの改修計画図(写)

ヨハネス・デ・レーケの改修計画図(写)(国土交通省HP)

計画や設計を担当していたファン・ドールンやエッセルに対し、来日当初のデ・レーケは、現場の施工担当が中心でした。

明治24年に大水害に見舞われた富山県に1か月以上も長期滞在し、扇状地河川として川全体が大変な急勾配な常願寺川を中心に現地をくまなく歩き、川の状況を把握します。

そして、「素材が悪くて壊れやすいが構造は有効なので,強固で大型化した霞堤をつくるべき」として、大型化させながら霞堤を残しました。

戦国時代から続く日本の伝統的な河川技術を有効なものとしてデ・レーケは評価していたのです。霞堤を推してくれたお雇い外国人はたぶん、デ・レーケだけなのです。


30年も雇われ続けたわけ②〜「なんで私がこんなことを」とぼやく

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筑後川デ・レーケ導流堤(撮影:寺村)

本国のオランダで十分に土木の専門知識を学んでいなかったデ・レーケは、日本に来て、日本の河川の現場に接しながらエッセルらから得た専門知識を現場に最適化していくことで技術を獲得していきます。

そして何より、現場をくまなく見て回り、現地住民に会い、現場の日本人技師と協力することで多くの事業を実施していきました。この現場主義が、デ・レーケの最大の特徴だと私は思います。

木曽三川の改修工事では、外国人技師にもかかわらず、川を挟んだ地元のいざこざの対応に出向き、「なんで私がこんなことを」とぼやきながらも対応し、現地の地域住民からとても信用されていたそうです。

デ・レーケは長年にわたる日本への滞在で、日本に適した近代技術を自身の力で確立していったのだと思います。異国の地で現場主義に徹することは、そうそう簡単なことではありません。


30年も雇われ続けたわけ③〜子だくさんだった

デ・レーケは何人かのお雇い外国人のように、日本人女性と結婚したわけではなく、オランダから妻も子どももつれて来日し、日本でも子どもを何人か授かっています。

途中、妻を亡くし、次々と同郷の技術者たちが帰国していく中で、デ・レーケは30年もの間、日本の土木技術者として働き続けます。妻を亡くした後の後妻もオランダ人女性で、後妻との間にも数人の子どもをもうけたほど、デ・レーケは子だくさんでした。

異国での教育だけでなく、一部の子どもたちはオランダに帰国させるなどしていたため、教育費に莫大な費用がかかったようです。加えて、この頃のオランダ本国は不況で、日本で高い地位にあった上司のファン・ドールンでさえ職にあぶれるような状況だったと言います。

定職であり、本国よりも高めの給料が得られる日本で仕事をし、親としての責務をしっかり果たして子どもらを養ったのでした。子だくさんであったことが働く原動力になっていたようです。

デ・レーケは日本を離れた後、中国でも仕事をしていますが、こちらでは水が合わなかったのか、早々にオランダに帰っています。


地域知・伝統知を活かすデ・レーケ流の未来

近年、デ・レーケの祖国であるオランダは、まるでデ・レーケがかつて日本で採用していた地産地消型の土木を彷彿とさせる取り組みを世界中に輸出しています。

デ・レーケが地域知・伝統知を活かした河川技術の中で、霞堤の技術を他国の事情に適応させることで、霞堤が日本式堤防として世界で活躍する日が来るのかもしれません。

こうして、日本に来るまで砂防とは縁のなかったデ・レーケは、来日当初から見続けてきた日本の河川や山野の現場で身につけた技術をうまく融合させ、日本の国土に適した方法を模索し続けたことで、日本の『砂防の父』とまで呼ばれるようになるわけです。

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では、最後に答え合わせを。

霞堤という言葉が文献に初めて出てくるのは、明治24年に富山県の新聞記者・西師意(にしもろとも)が論じた「治水論」です。

西の治水論は、常願寺川の大水害に対して、当時のお雇い外国人による治水政策を批判的に論じたもので、デ・レーケはお雇い外国人の中で唯一、霞堤を活かす計画や山の保全について賛同していました。霞堤の言葉の誕生の背景には、間接的にデ・レーケが関わっていたんですね。


最後にお知らせ

さて、デ・レーケも載っている「土木偉人かるた」は、土木学会にて絶賛発売中です。

土木偉人イブニングトークは、デ・レーケをはじめ多くの土木偉人について、あまり知られていない土木偉人、地域の土木偉人、私の土木偉人、坊主な土木偉人、髭な土木偉人などなど皆さんが知っている・知らない土木偉人についてディープなお話をしています。

第4回 の土木偉人イブニングトークは、第二部で一般参加の方にもご参加いただける アフターミーティング「ちょっとだけ、土木偉人についてかたる会」を行います。皆様とお会いできることを楽しみにしています。

日時:2021年9月30日(木) 
第一部(第4回土木偉人イブニングトーク):17:00~17:30
第二部(ちょっとだけ、土木偉人についてかたる会):イブニングトーク終了後、準備でき次第開始。30分程度を予定。お申し込みはこちらまで
文責:寺村淳
プロフィール
専門は河川史、主に災害史と霞堤の研究。環境教育や地域づくりにも手を出す。尊敬する佐賀の土木偉人・成富兵庫茂安が『土木偉人かるた』にいないことを主張したところ、いつの間にか土木偉人イブニングトークの司会をすることになっていた。趣味は淡水魚(獲ることも見ることも)と川遊び。
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